明治大学柔道部 今年で119年目になります
Meiji University Judo Club is in its 119th year




栄光の歴史 (戦前編)

創部から大戦による活動中断まで

明治大学体育会柔道部は明治38年(1905年)に創部された。初台の部長は松村定次郎法学部教授で、師範は内田作造五段で、部員は26名と記録されている。「武堂」と呼ばれる道場が旧校舎内に設けられたが、その後、大正12年(1923年)の関東大震災で校舎と共に焼失した。

「武堂」と呼ばれる道場のあった大学記念館(千代田区神田駿河台)


大正12年9月1日の関東大震災で校舎と共に焼失・崩壊した



崩壊した記念館の復興に自主的に学生達が集まってきた。この中に多数の柔道部員がいた、と伝えられている。

明治44年(1911年)、初代師範の内田にかわり、この年大学を卒業した福田常雄三段が師範に就いた。大正元年に福田は有段者部員を引き連れ、信州地方へ遠征試合に出かけたが、この画期的行動はその後の地方遠征の基礎をつくった。この遠征に福田師範、新免純武三段、難波清人初段、多田利吉初段、八重野松夫初段が参加している。

大正2年(1913年)福田に代わって講道館の俊才三船久蔵が師範に就任した。技熟達の域にあった三船五段の熱意溢れる指導で部員の技術は飛躍的に向上し、部員数も大幅に増え、有段者の数が早・慶を凌ぐに至った。この秋に第二回地方遠征で大阪と信越へ行き成果をあげている。


寝技の指導にあたる三船師範(左の着物姿)

東京学生柔道連合会が大正12年(1923年)3月に誕生し、翌年の第1回学生団体対抗大会が明治神宮体育大会柔道大会という名称で開催された。
この記念すべき大会決勝で早稲田を破り、明治大学が輝く初代優勝校となった。


大正13年 第1回明治神宮体育大会柔道大会優勝メンバー(中央は三船師範)

明治神宮体育大会柔道大会とともに、東京学連対満州選抜軍の勝ち抜き戦形式の定期戦も、又、全国の柔道ファン注目のビックイベントであった。
東京と満州各都市で交互に開かれたこの定期戦に出場することが、学連部員のもう一つの目標であった。明大はこの定期戦の全試合に中心選手を送っている。


大正14年の満州遠征記念写真


当時の柔道部員(大正14年)


大連にて

大正12年(1923年)の関東大震災で校舎と共に道場が焼失して以来、柔道部は学外で稽古場を求め転々とする状況を余儀なくされていた。


バラックの仮道場に集まったOBと学生達

明治大学では記念館を復興する活動が展開され、その落成を機に昭和3年4月21日より4日間復興記念式典が盛大に挙行された。

昭和3年4月21日の記念館落成式典


完成した駿河台本校記念館


その後、正門など周辺が整備され駿河台のシンボル的存在となった


昭和4年の柔道部員 (駿河台の本校記念館前にて)


堂々たる主力メンバー達 (昭和4年)

その後、関係者の努力で昭和5年(1930年)、駿河台の本校地下に道場が新設された。昭和5年(1930年)は大学創立50周年にもあたり、
その記念もかねた新道場落成記念演武大会が3月4日午前10時より、東久邇宮殿下の臨席を得て盛大に行われた。


新道場に於ける三船師範・神田5段の極めの形をご覧になる東久邇宮殿下


待望の新道場をもった部員たちは、正に水を得た魚の如くであった。この地下道場は、28年後に移転するまで、
明大柔道修練の場として、わずか68畳の小道場ながらその存在は 斯界に知れ渡っていった。


当時の稽古風景

この新道場の落成はOB達も発奮させるところとなり、それまで暫定的な運営であったOB会の整備と組織化が計られた。
その結果、同年「明大柔道部の賛助と会員相互の親睦」を目的とした全国組織「明柔会」が結成された。
本部を吉祥寺にあるOBの鈴木潔治宅におき、会報の発行と名簿の管理など会運営の基礎をつくった。


明柔会発足当時(左から小枝指義夫、川上忠、鈴木潔治)


(後列左から小枝指義夫、鈴木潔治、高橋秀山、川上忠)


「明柔会」設立時本部がおかれた鈴木道場(吉祥寺)の現在


大正12年建築当時の姿をそのままに残す貴重な道場である
道場の床下にはレールを格子状に組み、スプリング効果を出している

鈴木潔治は1964年の東京オリンピックの際に、「五の形」を実演する予定であった三船久蔵十段が急病のため、
代わって鈴木潔治九段(取り)白井清一九段(受け)で無差別級決勝戦の前に実演している。

さて、柔道部も活況のもと明柔会の協力を得て、二度のアメリカ遠征を敢行した。昭和6年(1931年)8月に牧野政信監督のもと9名による一行は
8月27日に横浜を発ち、西海岸を中心に各地でデモンストレーションを行い、11月12日に帰国した。

牧野政信

略歴:秋田県八竜町出身、大正10年に政治経済学科を卒業。昭和15年の第1回全日本柔道選手権大会一般壮年の部で準優勝。
昭和12年東京学生連合会監督として満州遠征にも参加。昭和20年3月に郷里に疎開し、能代山本地区に柔道を広めた。


昭和8年夏の湘南における夏合宿

昭和8年当時レスリングは次回ベルリンオリンピックに向け強化の途中にあったが、国内では新興スポーツゆえ生え抜きの選手はおらず、
柔道界がこれを育成し始めた草創の時期であった。


昭和9年レスリングの練習に励む松田滋夫と三船師範


昭和9年(1934年)の学内紅白試合後の記念撮影
中央に三船久蔵師範、その左はOBの牧野政信

さらに、昭和11年(1936年)に葉山三郎監督のもと11名で7月1日出発、全日程2ヶ月という第2回アメリカ遠征を行い、
第1回同様の成果をおさめて帰国した。

昭和11年7月の出航前の集合写真 (左端 葉山監督)


現地では米国柔道家達との親善交流会が催された


第2回アメリカ遠征から帰国時の甲板にて

昭和12年に葉山三郎が再び単独で渡米し、ロサンゼルスで柔道指導にあたるが、徐々に日米関係が悪化した時代でもあった。
とうとう退去命令が出され、葉山は指定された船で帰国している。


葉山三郎


昭和13年12月 双葉山が相撲部師範に就任 (駿河台本校相撲部稽古場にて)


明大の名だたる指導者が勢ぞろいしした夢のような時代

二列目右より北島忠治ラクビー部監督、双葉山相撲部師範、三船久蔵柔道部師
範、ひとりおいて中山博通剣道部師範


駿河台本校地下柔道場(相撲部の稽古場とは風呂場をはさんで並んでいた)中
央で技を受けているのは姿師範


昭和17年予科道場前で葉山師範と新入部員の記念撮影
(現在の杉並区の明大泉校舎内)

大戦が始まり戦火は徐々に拡大していったその後、戦運は愈々険しくなり、昭和18年11月になると、
当時新宿大木戸の三船師範宅に書生として住んでいた、斎藤雅夫・古賀愛人も神宮外苑で行われた学徒動員出陣式に参加、
古賀は中隊長としてサーベルを抜いて指揮をとり、どしゃぶりのなかを行進した。学生は互いにバラバラになり散っていく、それを見送った山崎昌徳
は、これが宿命と覚悟させれられていた寂しい時代で、現在の感覚では考える事の出来ない世代であった、と当時を振り返っている。


学徒出陣(駿河台本校にて)

20歳を過ぎた先輩達が学徒出陣で居なくなった直後、当時リーダー役の山崎は師範の葉山三郎に相談したいことがあると呼ばれた。
「他の大学は凡て柔道部を維持出来ないと言うが、我が校だけは息の続く限り頑張り通してみたい、どうであろうか?」との相談であった。
その頃の部員は広島から山肩敏美・日垣芳春、久留米から石橋弥一郎、八代からは吉永富義など立派な選手が健在であり、
山崎は「どうせ軍隊に入る迄の青春ですから、皆に相談しましょう」と答え、早速、残っている約40名の部員を集めた。部員達を前
に葉山師範は「全員和気藹藹として、互いに切磋琢磨し、心を磨き体を練り勉学に勤しみ、短い時間かも知れないが文武両道に励んで欲しい」と語り、
熱意は全員の心に響いた、と伝えられている。


皇居二重橋前の広場で (後列右端が山崎昌徳主将、前列左端は吉永富義)

各校の柔道が出来なくなったこともあり、複数の大学で指導をされていた三船久蔵師範の明大道場で指導する日が次第に増えていった。
だが、残された部員の大学で過ごす機会も少なくなり、とうとう柔道場に鍵をかける時が来た。
その日、皆で道場の掃除をした後、名簿と部印を手にした主将の山崎が道場の扉に施錠し、全員で再会を誓い合い去っていった。

                                                                                     戦後の柔道クラブ発足へと続く...



newpage1.htmlへのリンク