柔道クラブから学生柔道復活まで
戦後の明大柔道部が復活へ向け始動したのは、まだアメリカ占領軍が日本を統治していた昭和21年(1946年)11月であった。その年の5月にシンガポールから復員し、復学した古賀愛人が復活に向け歩き出した。当時学生柔道は軍国主義的な精神を育むとして、終戦の年の昭和20年(1945年)11月に学校体練の授業が中止となり、更に12月に学校またはその付属施設において柔道の個人的練習も禁止じられていた。
<学校柔道の禁止>
学校柔道や剣道の取扱いについては、文部省はGHQの民間情報教育部と折衝が続けられたが、提案が全て却下され万策尽きてしまった。文部省は、昭和20年11月6日、文部次官通牒(発体80号) を地方長官、大学、高等、専門学校長、教員養成諸学校長あて「終戦に伴ふ体練科教授要目(網)の取扱に関する件」で体練科武道(剣道・柔道・薙刀・弓道)の中止を通達した。だが、それならば愛好家が校内で勝手に練習するなら良いのではないか、という問題が起きた。そこで、文部省は追いかけて「学校またはその付属施設において柔道の個人的練習の禁止」を12月26日体育局長通牒(発体100号)を大学高専学校長、地方長官宛てに発している。
昭和22年(1947年)に岐阜出身の堀口武が商学部に復学、また11月にシベリアから復員した愛媛県出身の山崎昌徳が翌年、昭和23年(1948年)、4月に商学部に復学し古賀の活動に加わった。復学した柔道部員は第2レスリング部(ジャパニーズ・レスリング)と称し、レスリング部に混じってマットの上で練習に励んだ。その一方で、学内で柔道部復活への活動を展開していった。それは学生柔道が正式に復活する2〜3年前のことであった。
昭和22年度レスリング部新入生歓迎記念写真
当時の柔道場は畳はなく、皆が土足で歩き回るほど荒れ果て、修練の場として柔道部員が血と汗と泪を流し稽古に励んだ面影は残っていなかった。古賀愛人は山崎昌徳や、堀口武とともに荒れ放題の柔道場の明け渡しを空手部や吹奏学部にかけあい、交渉の末、取り戻すことに成功した。そして「柔道クラブ」と手書きの看板を掲げ本校地下の柔道場を再開した。
だが、依然として学校柔道は禁止されたままで、公に稽古はできない。「進駐軍の見回りが来たら、柔道着の上着を脱ぎ捨て、ジャパニーズレスリングの練習をしていることにしよう。」、地下道場入り口に見張りを立たせ、進駐軍の見回りに備えながら柔道の稽古をした。
柔道部復活の立役者
(左から山崎昌徳、堀口武、古賀愛人、相撲部主将影山信雄)
古賀愛人は学内で体育会柔道部として公に活動が出来るよう、柔道部復活への熱い思いを明治大学理事長の双川喜一にぶつけた。「わかった、進駐軍が文句を言ってきたら、私が何とかしましょう。」双川理事長はその場で柔道部復活を決断し後押しを約束してくれた。「柔道クラブ」の看板を掲げ、大学柔道復活を夢見ていた若者達にとって双川理事長の力強い言葉が大きな励みとなった。
やがて地下道場に畳が敷かれ、柔道の稽古が再開された。新学期から徐々に柔道の心得のある若者が入学し、部員も20名程に増え立派な「柔道クラブ」に成長していった。双川理事長は大分で後の横綱双葉山(当時15歳)を見出した人物でもある。(双葉山は昭和13年に相撲部の師範に就任している。)
猛練習に励む柔道出身部員の宮崎博通
昭和23年第3回国民体育大会宮崎(明大) 対市原(中大)戦
大学対抗戦宮崎(明大)対柿原(慶大) 日比谷公園にて
東西対抗出場の明大レスリングチーム
(左から2番目は宮崎博通、右端は古賀愛人)
学生柔道の禁止令の影響もあり、欧米で盛んなレスリングが日本の大学内でも目覚しい勢いで活動し大学対抗リーグ戦が華々しく行なわれていた。柔道出身の部員たちはレスリング部員に混じり大会で活躍した。
昭和22年12月2日レスリング部納会
(2列目右端が古賀愛人、3人目が宮崎博通)
昭和23年レスリング部卒業記念送別会
2列目右から3人目が伊藤信夫、その隣は堀口武
前列左から2人目がやっと復員した柔道部OBの久米勝(白雲寮の寮長も勤めた)
堀切菖蒲園近くにあった明治大学「白雲寮」
主にレスリング部の部員が寝泊りしていた。写真は昭和23年(1948年)2月に白雲寮の前で、卒業生送別記念に撮影されたもの。
堀切菖蒲園駅ホームにて
明大体育会の仲間たち国鉄御茶ノ水駅前にて
後列左から3人目が宮崎博通
宮崎の卒業アルバムと、表紙の裏に先輩の古賀愛人が宮崎に贈った文章が綴られている
レスリングは重量別競技であるが、柔道は無差別の為、柔道の軽量者はより有利なレスリングに転向していくものも多かった。
☆スポーツの世界で昭和23年(1948年)という時代
日本がまだアメリカの占領下にあり、国際社会に復帰していない時代であった。しかしながら、国内のスポーツは既に野球やラグビーは盛んで、その結果はスポーツ新聞で大々的に報じられていた。敗戦国である日本が再び国際舞台に復帰するチャンスがスポーツをつうじやってきた、オリンピック大会への参加である。
昭和23年(1948年)12月6日(月)の日刊スポーツの記事
ブランデージ会長が、日本占領軍のマッカーサー元帥の承認があれば日本のヘルシンキオリンピックへの参加を許容すると発言した、と報じている。新聞の記事から、スポーツの世界でもアメリカの影響力の大きさをうかがうことが出来る。
余談だが、昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催時の国際オリンピック協会々長もブランデージ氏である。柔道競技が東京オリンピックで採用されたのは、アメリカの後押しがあったからと思われる。アメリカの柔道史に詳しい篠原一雄も「格闘技と柔道の違い」の中でその経緯を記している。
篠原一雄「格闘技と柔道の違い」より抜粋
1964年の東京オリンピックにて初めて柔道がオリンピックの公式種目として認められたが、これは、アメリカの指導力のおかげである。戦後IJFが設立されてから柔道がオリンピック種目として参入できるのが世界の柔道家の夢であった。それは、嘉納治五郎の夢でもあった。現に、嘉納治五郎が戦前1936年のベルリンのIOC会議にその提案をしているが、IOCからオリンピック種目としての採用を拒否されている。第二次大戦終了後、アメリカのAAU(アメリカ体育協会)は世界のスポーツ界に強力な影響力を発揮していた。その頃、アメリカ国内でも柔道をオリンピック種目に取り入れようとする動きがあったが、当時、体重別を認めていなかった柔道は、オリンピック関係者の間、特にAAUの中で、100ポンドもの体重の違いがある選手同志が試合をするのは、スポーツではなく野蛮な武術であるとの理由で相手にはされなかった。苦肉の策として、1953年、アメリカで初の第1回体重別の柔道選手権大会が開かれ、これがA A Uにスポーツとしての柔道を認識させる大きなインパクトを与えたのである。ちょうどこの頃、IOCの会長、有名なAVERYBRUNDIDGE(ブランディッジ)氏が米国カリフォルニア州サンタバーバラに在住、強力な柔道愛好家、カリフォルニア大学バークレー校のヘンリー・ストーン(HENRYSTONE)博士がブランディッジIOC会長の親友であったことと、元USJI(全米柔道統括協会)会長であったヨシ・ウチダ氏がサンノゼ大学の柔道コーチとしてヘンリー・ストーン博士との親交があったことが、柔道が今日のオリンピックスポーツとして参入できた大きな原動力となっていることも特筆に値することである。大学リーグ戦に勝つためには、体重別にベストの選手を集め勝ち点を挙げねばならない。当時の重量級レスリング選手は柔道部の選手か、相撲部の選手から選ばれリーグ戦での優勝を目指した。その為、レスリングの監督から「学校の名誉のため」と強い要請もあり、また柔道部復活への協力のお礼もあり要請に応ずることになった。
昭和2 4 八大学リーグ戦春季レスリング優勝記念
明大レスリング部(後列右から曽根康治、伊藤信夫)
ほんの短期間のトレーニングを経て試合に出場したにも拘わらず、リーグ戦では全勝、ウエルター級、ミドル級の2階級の選手権も制覇した。そして、伊藤信夫は戦後初の日米対抗試合(昭和25年7月15日芝スポーツセンター)でのミドル級日本代表に選ばれた。
日米対抗試合(昭和25年7月15日芝スポーツセンター)
日米対抗試合(昭和25年7月15日芝スポーツセンター)
更に、トルコ遠征代表選考会を兼ねた昭和27年11月の全日本選手権ではライトヘビー級で伊藤信夫が優勝した。ヘビー級では曽根康治が優勝し、翌年1月下旬のトルコ遠征に二人で一ヶ月参加した。
昭和27年11月レスリング全日本選手権
( ライトヘビー級 伊藤信夫) (ヘビー級 曽根康治)
昭和27年レスリング日本選手権優勝者
伊藤信夫、曽根康治がルコ遠征に参加
伊藤信夫(左)はオリンピックライトヘビー級3位のアターン選手と対戦
トルコ遠征の途中立ち寄ったレバノンのホテルから
(手前が伊藤信夫、右奥が曽根康治)
昭和23年(1948年)になると柔道クラブ部員は大学の地下道場の他、水道橋の講道館でも稽古を重ねた。学校柔道は禁止されていたが、講道館と町道場での柔道は禁止されていなかった。そもそも柔道は人間形成の為という教育的な意味をもっていたのであり、通常では柔道をすることがが禁止の理由にはなりえない。
また、講道館や町道場には職業として柔道を教え生活している人たちがいて、その人たちから職を奪うことは職業の自由に反するという考えが占領政策にあったと推測する。最大の理由は、学校という教育現場で、軍国主義的な精神を育む手段となってはならない、ということであった。
当時の講道館
明治28年の創立以来、50年にわたって、官制の総合武道館的役割を果たしてきた「大日本武徳会(武徳会)」は昭和21年(1946年)10月31日をもって解散、学校柔道もなくなり、全国的組織として残されているのは講道館の有段者会だけとなった。この時期、三船久蔵師範は講道館で稽古する実力派の若手会員を引き連れ、米軍施設や公会堂で柔道PRのデモンストレーションを繰り返し実施した。進駐軍の手配するトラックの荷台に畳と一緒に柔道家も積んで移動した。敗戦直後の講道館は空襲で受けた損壊のため、道場を仕切って大半を事務所や住居にあてた状態にあった。京都の「武徳殿」は進駐軍に接収され、イルミネーションを施されダンスホールに転用されていたと聞く。そのような中で、各地方の講道館員の着実な努力が実を結び、道場の整備が進むにつれ入門者の数も増え、また、進駐軍の中にも柔道愛好家が増えていった。
講道館での明大柔道クラブの評判を知り、大学で学びびながら柔道も強くなりたいという若者が明治を目指してきた。また、昭和23年(1948年)後半になると、各大学の柔道選手が講道館に集まるようになった。
学内での体育会加入の準備は、体育会幹部、事務局を統括する学校側の井手学生課々長などと精力的な折衝の結果、禁止令解除までの間は柔道クラブとし、体育会のオブザーバーとして体育会の行事や会議に参加し、学校柔道禁止の解除後は正式に体育会柔道部として認可すると決まった。
昭和24年3月卒業する古賀愛人、山崎昌徳と記念撮影
(駿河台本校にて)
昭和24年本校中庭にて
伊藤信夫(着物姿、左の写真中、後列右端)は高等師範学校の醍醐敏郎との試合で右ひじを痛め、洋服に袖をとおせずしばらく和服で通学した。
昭和24年本校中庭にて(中央はOBの古賀愛人)
昭和24年(1949年)の夏、九州在住の縄田喜美雄(大正14年卒)の支援を得て、戦後第一回の地方遠征が実現した。第一回広島・九州遠征のメンバーは古賀監督、堀口、金谷、隠居、伊藤、金子、神田、宮崎、小野寺、曽根、末木、門屋、大野の13名であった。
出発前東京駅のホームにてOBの八島輝徳(中央)の見送りを受ける
遠征の車中にて
一行は途中広島に寄り練習試合を行なっている。広島では川口一郎(昭和19年卒)、山肩敏美(昭和21年卒)らの世話になっている。
昭和24年8月広島遠征川口先輩と
昭和24年8月広島遠征トラックで試合へ
縄田喜美雄は当時遠賀郡芦屋町の助役をしていたが、戦時中は天津で商業を営み、そこに先輩の八島輝徳も勤めていた。共に人の面倒見が良く、戦後明大柔道部復活の中心人物である古賀愛人に明大進学を勧めたのも縄田であった。豪快な性格だが、酒は一滴も飲まなかった。学生柔道夜明け前のことであるが、学生は地方在住のOBとも強い絆で結ばれていた。
福岡県遠賀郡芦屋町山鹿小学校玄関前
(写真中央はOBの縄田喜美雄)
久留米ブリジストンタイヤKKクラブ中庭 歩いて試合場へ向う
昭和24年8月九州遠山鹿小学校
久留米にて
久留米遠征
この第一回広島・九州遠征の帰路、宇和島の山崎昌徳の実家に立ち寄り、伊藤信夫、神田和夫、小野寺文雄、門屋賢悟、末木茂が大変お世話になったという後日談もあった。時代は裕福でないが、皆が兄弟の如く助け合い生きた時代であった。この後、25年(1950年)は第二回大阪・広島、久留米へ遠征した。行く先々で練習試合を行い、明大柔道クラブの名前を全国に広めていった。
博多遠征 佐賀遠征
福岡県遠賀郡芦屋町山鹿
久留米駅 軽食風景(久留米)
第1回目の遠征から参加している宮崎博通(昭和25年専門部政治経済学科卒)が八島輝徳との出会いを語ってくれた。
宮崎博通
八島先生の話をするには明大にはいる前から話さねばなりません。八島先生との最初の出会いは戦時中に遡ります。当時日本では戦争が烈しくなり(昭和18年)各種スポーツ大会も出来なくなりました。柔道も例外なく旧中学の先生から内地ではもう柔道は出来なくなった。唯天津で華北交通株式会社(南満州鉄道、略称「満鉄」の関連会社)はやっているとのこと、そこには先輩も行っているとのことでした。自分は兵隊に行ったら死ぬのみと思っていましたから、生きているうちにやりたいことをやろうと華北交通に就職(昭和18年)に天津へ行きました。天津の日本租界には立派な武徳殿があり、皆夜になるとそこに集まって猛練習をやりました。当時自分は4段でしたが、小生のような連中が大勢来ていて良い練習が出来ました。練習の終わる頃ズングリとして体格の方がみえて、皆が挨拶をしていました。その時先輩が自分を紹介してくれました。その方が八島先生で、特に華北交通の柔道部員の面倒をみてくれました。先生は面倒見のとても良い方で、よく中華料理を食べに連れて行ってもらいました。日本では食べるものの無い時だったから、とてもあり難かったです。戦争が終わり復員して帰って明大に入学、丁度柔道クラブ結成の受け付けをしていたら八島先生が見えて「君は此処におったのか、死なんで生きてよかった」と喜んでくれました。それ以後も大変お世話になりました。先生とは不思議な縁でした。先生は斗酒なお辞せずで、酒をこよなく愛した方で、とにかく面倒見の良い方でした。
天津の旧武徳殿(現在の外観) 川瀬剛氏提供
宮崎博通の卒業した年も就職難であった。在学中4年生の山崎昌徳が道場に背広を着て来た時の姿が忘れられず、背広を着たいばかりに後故郷北九州で市役所に就職したと語っている。宮崎は昭和23年全日本レスリング選手権大会ウエルター級で第二位になっている。
山崎昌徳
更に宮崎には浅草の町道場開きに参加した時の話が残っている。大先輩の川上忠先生(明柔会設立メンバー、警視庁師範)が10人掛けをした時、宮崎が最後にでて「釣り込み腰」をかけたとたん先生が倒れてしまった。寮に帰ってその話をしていたら、先輩の古賀愛人が聞きつけ、そんな時は相手に花を持たせるのが礼儀だ、と大目玉を喰らわされた。宮崎は後日「若き日の思慮のなさを恥じる」と反省していた。
昭和24年地下道場付近
昭和25年地下道場付近
昭和24年〜25年にかけ、講道館練習後に各大学の柔道部員と学校柔道復活へ話し合いがもたれるよになった。活動についての模索が始まり、具体的な施策を協議した結果、大学が地域別に復活の署名運動を行い、集計した署名簿に学校柔道復活の趣意書を添え代表者がGHQ(連合国総司令部)スポーツ局のニューヘルドに提出することになった。学生の代表に明大キャプテンの伊藤信夫が選ばれ、趣意書の作成も依頼された。
伊藤信夫、山崎昌徳、神田
伊藤はこの話の先導役を広島出身の松本瀧蔵教授にお願いし快諾を得ている。松本教授は明治大学商学部(昭和5年)卒、更に昭和13年ハーバード大学院経営科も卒業され、各界に多大な影響力をお持ちであった。後に片山内閣・第1次岸内閣の外務政務次官、第1次から第3時鳩山内閣の内閣官房副長官を務められた。加えて、明治大学短大で教鞭をとられる奥様(松本綾子)も相当の語学力の持ち主で、GHQへ提出する英文の学校柔道復活の趣意書は松本綾子が書き上げた。松本教授、伊藤キャプテン一行を乗せた車は、日比谷のGHQへ向い、ニューヘルドに面会し署名簿に学校柔道復活の趣意書を添え提出し、無事大役を終えることが出来た。
旧GHQ(連合国総司令部)
この時のエピソードが残っている。GHQのニューヘルドは伊藤に次のような質問をした。「柔道は体の小さい人が大きな人と試合をするが、それは小さな人に不利ではないのか?」伊藤は「小さな人が大きな人を投げることができるのも柔道である」と答えた。するとニューヘルドは「それでは体の小さい人と大きな人をそれぞれ100名集め、一年間同じ練習量を積むとする。そして試合をしたら、どちらに勝ち数が多いとおもうか?」と尋ねてきた。更に、「確かに中には小さい人が大きな人に勝つこともあるだろうが、絶対数では体の大きい人の方が有利である。そう思いませんか?」と加えた。伊藤は「私もそう思います」と答えた。(伊藤信夫談)
余談であるが、昭和36年(1961年)6月のIOC総会で1964年の東京オリンピックに柔道競技が正式採用が決まったが、その過程では無差別のみという日本柔道にこだわる意見と、体重別を導入するという意見の対立があったと聞く。その意味からも、GHQ訪問時に既に柔道国際化に必須であった体格の違いによる優位性という考えが議論されていたことは大変興味深い。学校柔道に話をもどし時系列に整理すると、終戦の年である昭和20年(1945年)11月6日に学校体練科で柔道の授業が中止され、12月26日に学校やその付属施設での柔道の個人的な練習も禁止となった。その後、高まる学校柔道復活への熱い思いを受け、昭和25年(1950年)5月13日に「学校柔道復活に関する文部大臣請願書」がGHQに提出されている。
学校柔道復活に関する文部大臣請願書
残念ながら記録にあるのはカバーページのみだが、今回の発見で「学校柔道復活について」日米間で公式な書簡のやりとりがあったことは事実と確認出来た。
外務省外交資料館出典その後、6月頃からGHQの柔道に対する考え方・態度も除々にかわり、「柔道クラブ」のメンバー達に近く学校柔道禁止令も解除されそうとの情報が入った。そして、ついに昭和25年(1950年)9月13日GHQは、「学校柔道の復活について」という覚書を日本政府に手交した。
日本時間で受領は14日午後2時10分と記載されている。学校柔道解禁の歴史的瞬間で、ついに戦後の学生柔道の夜が明けたのである。
GHQ発行の学校柔道解禁の覚書オリジナルコピー<br>
外務省外交資料館出典
これにより学校柔道の復活がGHQより許可された。それを受け、10月13日の文部・事務次官通知「学校における柔道の実施について」で、学校の体育教材として柔道が認められたことを布告し、昭和26年(1951年)1月11日に中学校以上の随意科目に柔道が復活した。皆の努力が実を結び、ここに戦後の学生柔道は歩みだし、「柔道クラブ」は晴れて「明治大学体育会柔道部」として承認された。
昭和26年(1951年)に入ると3月に東京学生柔道連盟が、6月に関西学生柔道連盟と九州学生柔道連盟が結成された。そして同年10月に全日本学生柔道連盟の結成に至り、戦後最初の学生大会(個人戦11月15日大阪球場仮設道場)が開催され、明大柔道部主将の金子泰興が優勝し戦後の初代学生チャンピオンになった。
金子泰興
昭和26年(1951年)の第3回遠征は姿監督引率のもとに東北、北海道を巡り明大柔道部の名をひろめていった。地方遠征はその後も多くの先輩のご尽力によって毎年実施されるようになった。
金子泰興
参考だが、同時期に海外では柔道国際化に向けた時代の潮流があった。昭和23年(1948年)7月にロンドンで欧州柔道連盟が結成され、昭和26年(1951年)7月に国際柔道連盟へと改組している。昭和26年12月に欧州柔道選手権大会がパリのスポーツパレスで開催され、これにあわせ仏柔道連盟の招きで欧米にて巡回指導をしていた嘉納履正講道館々長一行(田代国際部長、松本7段、醍醐6段)が出席。正しい柔道の紹介と指導が館長一行から行われたとの記録がある。翌27年(1952年)12月にパリにおける国際柔道連盟総会で、日本の加盟と嘉納履正講道館々長を国際柔道連盟会長に推薦することが決まり、館長代理として出席した田代重徳国際部長はそれを受諾している。
曽根康治五段
さて、日本国内では全日本学生柔道連盟が結成された翌年、昭和27年(1952年)9月14日に、団体日本一を決める第1回全日本学生柔道優勝大会が蔵前国技館で催され、圧倒的な強さで明大が初代優勝校となった。この頃の明大柔道部は5段が勢ぞろいし、地下道場の稽古は熱気に包まれていた。明大はこの第1回大会から三連覇を成し遂げている。
戦後第一次黄金時代の選手達
写真中央が八島輝徳、後列左から二人目が姿節雄、その右は久米勝、右端が曽根康治である。前列右端は葉山三郎、前列左より三人目が神永昭夫神永昭夫(当時二年生)と横綱若乃花(初代)との柔道の稽古本校地下にあった柔道部と相撲部は隣同士であり、また風呂も共有していた。明大に関取衆を連れ相撲部に稽古をつけに来た横綱若乃花が柔道衣に着替え、柔道部員にまじり稽古をしたことも珍しくなかった。当時二年生ながら成長著しい神永との稽古でも、神永が必死になって内股の技をかけるも重心を下げ両手を前に出し難なく防ぐ横綱を見て「さすが横綱は強いな」と感心した、と当時一年生であった篠原一雄は回想していた。
昭和30年(1955年)になり、戦後初めて学生選抜のアメリカ遠征が実施され、明大から石橋毅次郎主将、渡辺欣嗣が選ばれた。
石橋毅次郎は内股の名手で、その豪快な投げはアメリカの柔道ファンを魅了した。
石橋の内股は、相手の足が大きく弧を描くのが特徴であった。彼に憧れて明大進学を決めたものも少なくない。
昭和33年(1958年)の夏、日伯移民50周年の記念行事として、講道館の小谷澄之(十段)に随行し、篠原一雄(当時3年生)がブラジル遠征を行なっている。この時の選考基準は優勝校から1名を派遣するというものであったが、優勝した明大の神永主将は試合で痛めた膝の状態が思わしくなく、明治は代わりに篠原を候補に挙げた。これに対し、全日本選手権保持者の猪熊功選手(教育大)を派遣しようという意見が出て、それではブラジルに二人の経歴を送り、選んでもらおうということになった。結局ブラジルからの指名で、篠原が晴れて選ばれている。その選考の決め手が、小柄な篠原が豊富な得意技をもっていたからと伝えられている。篠原は先に相手に柔道衣の好きなところを持たせて組み、そこから技を繰り出す柔道であった。右の支え釣り込み腰と足払いを得意としたが、どんな組み手からも変幻自在にあらゆる技をくりだした。
羽田空港から飛び立つ篠原を見送ろうと、当日は明大柔道部員の他にも沢山の人が集まった。将来篠原の入社を期待する企業も、和服の美女に花束を手渡させるなどアピールした。一方、柔道部員達は前のはだけた着物姿に下駄、その上「篠原君頑張れ」と大きく書いたムシロを竹竿に掲げ大声で見送った。それを見た、小谷十段は篠原に「明治はすごいな!」と耳打ちし、それを後に篠原は「とても恥ずかしかった」と述懐している。
ブラジル遠征中に、南米全階級選手権大会(サンパウロ)に出場し優勝している。この出来事は新聞でも大きく報じられ、祖国の敗戦で自信を失っていた現地の日系人社会に再び活力を与えるものであった。
また、各都市を精力的にまわり抜き勝負で日本柔道の強さをアピールした。小柄な篠原は先手必勝、数秒で勝負を決める作戦であった。どんな組み手からも技を繰り出せた篠原ならでもので、スタミナの消耗を極力避ける戦術である。試合前に現地の日系人から「篠原君、国の名誉のために必ず勝つように!」と念を押された。
試合会場にて篠原一雄(左の柔道着姿)
試合後の篠原一雄(右から二人目)
南米全階級選手権大会への出場の他にも、サンパウロではアルゼンチン代表選手と25人掛け、更にリオでは柔道着を着たレスラーや柔術家など32人掛けをし約42分で見事に成し遂げている。その時は、エキサイトした地元ファンから座布団に混じって米粒、オレンジや玉子、挙句の果てにはラジオまでが投げ込まれ、「その日本人をやっつけろ!」という罵声の中を警官7人に守られ試合場を後にしたというインパクトの強い出来事となった。試合に先立ち、ブラジルの体育相と日本の大使の間で、柔道のルールで試合をするという確認があったと聞く。
日系人たちの母国からきた柔道家篠原への思いはとても強かった
ブラジル滞在中は柔道をつうじ日系人を励まし続けた
篠原の得意技、電光石火の釣り込み腰
篠原が大活躍するにつれ、日本から来たこの柔道青年を何とか地元に残したいとのことからか、日系人の娘(約50人)と話をする会などが企画され、部屋に一人残された篠原を若い女性達で囲むというこれまたインパクトのある催しもあった。
昭和33年の写真である。ブラジル遠征から帰国した篠原の慰労とその年に全日本柔道学生大会での優勝を祝う会が催された。篠原(中央)の左は三船久蔵師範、右は八島輝徳である。この時、主将の神永昭夫から来年の明大柔道部主将を任命されている。
主将の神永(右)から次の主将に任命される篠原と
それを見とどける三船久蔵師範(左)
篠原は4年生のとき明大主将を務め、卒業時は複数の大手企業から就職の勧誘を受けたが、ブラジル遠征時に訪れたサンフランシスコの町並みが忘れられず、卒業後直ぐに渡米、丸善石油のLA支店に勤務した。福田康夫(前総理)とも事務所で机を並べていた。昭和35年(1960年)当時は日本の高度成長前夜でもあり、企業エリートや政治家が頻繁に訪米していた時代である。LAのリトル東京はそんなビジネスマン達の集う憩の場でもあり、数々の出会いがあったと聞く。
1962年全米選手権グランドチャンピオンを獲得(各クラス優勝者でトーナメント戦を行い、その優勝者)この年の第三位に明大道場で4年間修行し、後に明大から名誉博士号を贈られた元アメリカ上院議員(コロラド州選出)、ベン・キャンベルの名前がある。篠原は1960年に渡米している。サンノゼ大学で稽古をした際、最初に稽古した相手がキャンベルであった。キャンベルは小柄な篠原に嫌というほど投げられ、東京オリンピックに向けた柔道の留学先に明大を選んでいる。また、グランドチャンピオン戦の決勝戦は圧巻であった。篠原は全米で強豪と言われた今村春夫(天理大出身)を試合開始8秒、右の釣り込み腰で一蹴し優勝している。
昭和33年はOBの曽根康治が全日本選手権を獲得し、更に蔵前国技館で催された第2回世界柔道選手権大会でも後輩の神永昭夫を決勝で退け優勝をかざった。
天皇杯を握る曽根康治
第二回世界選手権大会優勝曽根康治(中央)、準優勝神永昭夫(左)
かくして戦後の明治大学体育会柔道部は復活を果たし、更に日本・世界柔道史に残る名選手を世に送り出すに至った。
(文中敬称略、また、一部年代と内容は「世界柔道史」轄P友社発行、を参考にしています。)